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Interview_12

ブブ・ド・ラ・

マドレーヌさん

温泉観光地として知られる大分県別府市にて行われているBEPPU PROJECTⅰの一部として、ブブ・ド・ラ・マドレーヌと山田創平ⅱのユニットによる展覧会『水図_2012』ⅲが開催されました。このインタビューは、まさに『水図』を準備している真っただ中で行われたもので、これまでの活動から今回の『水図』に辿り着いた経緯、その背景にある考えなど、社会を生きていく上でとても大切な話を伺うことができました。

社会の中心をひっくり返す

 

自分を観察する

——今年はBEPPU PROJECTに関わっておられますね。

 2010年から別府や瀬戸内海に関するリサーチを続けてきて、その土地で感じたこと、考えたことを作品にしたいと思っています。山田創平さんという、土地の歴史を社会学的に読み解いていく研究をしている方とユニットを組んで、『水図』という作品を作っています。水彩画と映像とテキストで成り立つインスタレーションです。

——ブブさんのこれまでの活動では「性」をテーマにしているものが多かったと思いますが、その部分で今回の『水図』との関係は?

 『水図』のプレゼンテーションをした時に、私はこの10年以上の間、初めて「女性」という言葉を使わずにプレゼンテーションができたんです。これまでは自分が女性であることにこだわらざるを得ない状況で作ってきたので、自分でもビックリしました。二十代の時から、自分が思っている以上に自分が「女」として評価されることに違和感を感じていました。私は自分のことをただ「人間」であると思っているのに、「女のくせに○○」などと言われることが理解できなかった。この問題をクリアしないと、自分と世界との関係は解明できないと思ったので、手始めに自分が「女」であることはどういうことかを観察しようと思いました。それが思いのほか大きな問題だったから、これまで20年ぐらいかかったし、今も私の中では大事な課題ですけど、それが最優先の課題ではなくなってきました。働きかけて何か制度を変えたり、それに関する作品を作って人と話をしてきたおかげで、自分の中である程度オトシマエがついてきたんです。そこから次のステップに進むにあたり、たまたま水と土地というテーマがもたらされました。生きものの身体の中にも大きな水脈がある、という考えに辿り着いた矢先だったから、これはすごくいいタイミングだと思いました。地形としての陸地と水脈、一人の生命体の中の乾いたところと水脈みたいなところ。それが観察できるようになるために、これまではローカルな、個人というエリアを研究していたんだなと、極めてスッキリしました。

 

デビューはドラッグクィーン

——ダムタイプⅳとして出演されている『S/N』ⅴを拝見しましたが、衝撃的でした。その出演はどうやって決まったんですか?

 私はまだダムタイプという名前になる前、「劇団カルマ」だった頃は、彼らと一緒に活動していました。結婚を機に劇団から離れましたが、後に離婚することになり、私はそれこそもう一回人生をやり直そうと思って、東京のある劇団に入る決心をしました。でもその前に、まず6年間会っていなかった彼らに離婚の報告をしに、リーダー的存在であった古橋悌二氏のところに行きました。そこで「今度大阪で『pH』ⅵという作品の公演があるから観に来ない?」と言われ、観てみたら衝撃を受けたんです。それでその日の夜、行こうと思っていた東京の劇団のパンフレットとダムタイプのパンフレットを二つ並べて、私はどっちの人と一緒にやるべきか一晩考えました。それで選んだのがダムタイプです。でもずっと主婦でアート界のことも分からないから、自分がパフォーマンスができるとは思っていなかった。だからとりあえず名刺の整理、コーヒーカップを買ってくる、といった事務のお手伝いから始めて、アートマネージメントをやっていこうと思っていました。それで『pH』のツアーについて行っていたのですが、その頃みんなとクラブに遊びに行くことがあって、クラブに行くためのおしゃれとして、生まれて初めてお化粧をしたらドラッグクィーンⅶになっていた(笑)。私はアートのパフォーマーになる前に、ドラッグクィーンとしてデビューしたんです。クラブではいろんなことができてすごく楽しかった。例えおっぱいを放り出していても、それがかっこ良かったらOK。エロじゃない裸がクラブでは成立する。それが面白かったです。そうしているうちに、クラブで発明したその芸を舞台でもやってみないかということになりました。だから『S/N』で、私はドラッグクィーンとしてアート界に引用されたんだと思います。

——『S/N』に出演なさった後も、いろんな活動を展開されていますね。

 96年まで『S/N』をやっていましたが、古橋がAIDSで亡くなったことで、無我夢中で突っ走ってきたそれまでの間、自分の身に何が起こったのかを検証するために、例えばセックスワーカーと作品を作ったり、慰安婦に関する作品を作ったり、古橋が死んだことに対するオマージュの作品などを作りしました。自分の身に起こったことを因数分解するというか。「なんであの時にあんなことをしたんだろう」、「なんであの時にあんな感情になったんだろう」といったことを、色や形や映像で表現する。その作業を10年ぐらいして、やっとオトシマエがついた時に「これから本当に自分がしたかったことを始めよう」と。

——「本当に自分がしたかったこと」というのは?

 ハッキリ言葉にはできないけど、何かが漠然とあります。学生の頃は、技術は身につけるけど、何をしていいかが分からなかった。ダムタイプや古橋のこと、セックスワークなどを経て、今は表現したいこともあるし、かつ技術も持っていることにふと気がついて、それに驚いているところです。学生の頃は何の為に、何をしたいのか、何が自分にとって必要なのか分からなかったけど、今は分かるんです。それを探すためのある種、旅だったというか。

 

「ブブ」として

——学生の時は大学内の劇団で活動されていましたね。

 もともと演劇に興味があったんです。演劇と映画が子供の頃から好きで、それを作る人、もしくはそれに出る人になりたいと思っていたので、私にとって演劇、パフォーマンスをやることはすごく自然な流れでした。だけど、大人になるにつれて、人前で身体を見せることについて色々考えるようになりました。例えば、人前で裸でいることが自分にとっては自然なことなのに、世間からはとやかく言われる。なんで一枚脱いだだけでこんなにとやかく言われなければならないか、という憤りが私の中にずっとあります。世間が普通に裸を見れるような環境が整ってないというか。今はなぜか裸に過剰な意味や価値をかぶせる社会だと思うんです。場所によっては逮捕されたりもするし。でも辞めたわけではないので、六十歳になったらもう一回身体を使ってみようかと思っています。ただ今は、身体を使い疲れたのでお休み。

——パフォーマンスからAIDSに関する活動、セックスワークなどに至った理由は?

 AIDSに関する活動をやりはじめたのは、好きな人がその病気になったからです。当時はAIDS患者として生きていくことが、ものすごくやりにくい世の中でした。ただの病人として生きられないのは変だなと思ったので、それを変えるために色んな方向から働きかけて、仲間が集まって、そういう運動を始めました。それと同時にパフォーマンスをやっていたのですが、どっちも稼ぎにならなくてお金がなかったんです。お金にならないということ自体が問題だけど、それを解決している暇はないから、とりあえず自分が持っているもので一番高く売れるものを売るしかない、と思ったのがセックスワークを始めたきっかけです。それまで自分が全く知らなかった世界を知る一つの冒険でもあったので、役に立ったというか、良かったと思っています。五年前に引退したけど、三十歳ぐらいから四十五歳まで十五年程続けていました。

——それらの活動は、社会の偏見と戦っているようにも見えます。

 いや、自分にとって不愉快なことを不愉快だと言うだけのことだと思います。何がどこまで偏見なのかは分からない。「偏見」という言葉はあまりにも大雑把すぎるし、本当に私の気に食わない偏見を持った人がそれを直した試しはないです。本当に偏見を持っている人は、「私は偏見なんか持っていません」と必ず言うから。だから「偏見」や「差別」という言葉はあまり使いたくないんです。まさしくその当事者は、その言葉が自分とは関係ないと思っている。だからそうじゃないあらゆる言葉を使おうとしています。

——「ブブ」という名前も不思議な言葉だと思いましたが、どういう経緯で付けられましたか?

 ダムタイプに戻ってきて名簿の整理などをしていた時に、クラブに遊びに行くことになって、私は自分なりに考えて化粧をしたんですけど、車で迎えに来てくれた古橋が、部屋から出て来た私を見て「ぎゃー、それはブブって感じだね」と言ったんです(笑)。オノマトペですね。フランスでは、「ブブ」とか「ベベ」、「ジジ」、「ザザ」というのが、娼婦の名前や子供の愛称に使われているんです。

——「ブブ」の続きの「ド・ラ・マドレーヌ」は?

 マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』ⅷに出てくるマドレーヌの有名なシーンから、というのが一つ。あと、パリには「マドレーヌ寺院」というお寺があって、そのあたりは売春婦の地域で、マドレーヌ通りという売春路が建っているんです。「マドレーヌ」はその二つの理由から付けました。それと、日本はフランスに対して変なコンプレックスを持っていると思うんです。例えば、少し古いタイプの喫茶店の名前に「ラ・シャンブル」とか「アムール」など、フランス語を使っているところってすごく多い。そのようにフランスに対する、ある種の屈折したイメージをパロディーしたような名前にしました。「ド・ラ」というのは英語だと「of the」という意味なんですけど、フランスの貴族のような、正式な名前っぽい感じがしたので付けました。例えばレオナルド・ダ・ヴィンチも、ダが「of」の意味で、ヴィンチ村のレオナルドさん、という意味らしい。だから「ブブ・ド・ラ・マドレーヌ」はマドレーヌという地域のブブなんです。

 

水図:中心はない

——今回の『水図』は、社会学者である山田創平さんと作ることで、これまでとはまた違う形態の作品になるのでしょうか。

 芸術という枠組み自体、時代と地域によって変わってきています。アカデミズムの研究というジャンルでは、「論文を書く」という手法で世界を観察し、表現しています。それと芸術はすごく似ているところがあって、ただ、文章を使うのか、目に見える色や形を使うのか、音を使うのかが違うわけです。だから『水図』という作品は、そもそもアートかどうかも分からない。ひょっとしたら研究、リサーチの発表かも知れません。

——研究にしてもアートにしても、何かテーマのようなものを選ぶということですね。

 今回は、それが『水図』という概念です。『水図』というのは私たちの造語なんですけど、地図という言葉の裏返しとしても言っています。地図というのは、道が描いてあったり、地名が書いてあったり、地上のことは細かく書いてあるけど、海は青一色で塗っている。海の中にも凸凹があるし、色んな生きものが住んでいるし、水の流れもあるし、複雑なことが起こっているはずなのに、たまたま人間が水中に住めないということだけで、青一色で塗られているわけです。なので、それをひっくり返して、水の部分だけを詳しく調べた図が描けないかという考察が『水図』です。

——陸の方に住んでいる側から見れば何ひとつ不思議に思わない地図でも、海に住んでいる側からすると、自分たちの住んでいる場所がない物同然にされている、ということですね。別に世界の中心は陸ではないはずですが。

 そう。中心というものはない。私は、そういう見方があることをアート以外の人から教えられました。アートの人とだけ付き合っていたら気づけなかった。AIDSのことだったり、セックスのことだったり、社会学のことだったり。いかに面白い人に出会うか重要だと思います。

——アーティストも、作品を作る以前に一人の人間として、社会の一部として生きています。例えばニュースを見たり新聞を読んだりする中で入ってくる情報は、作品を作っている人もそうでない人もさほど変わらない。むしろ作品もそこが出発点ではないかと思います。

 本当にそう思います。誰にとっても生活が一番大事だし、その中でみんなが影響をあたえあっている。アーティストである場合もあれば、そうじゃない場合も当然ある。職業ってそういうものだと思います。望んでなる場合もあれば、やらざるを得ない場合もあるし、たまたまそうなった場合もある。得意技を活かしている人もいれば、活かせずに努力する人もいる。本当に様々だけど、できるだけその人の能力を活かせるのが幸せだとすると、今は経済的なことも含めてそれがしにくくなっている気がします。でもそれは自分らで変えていけるはず。だからアーティストであろうと、社会学者であろうと、パン屋さんであろうと、みんなが同じように話していくべきだと思います。

ブブさんに初めてお会いしたのは、大学の授業を通してでした。驚いたのは、周りの人と真摯に向き合う姿勢でした。何かについて話す際、必ず周りに断ることからはじめ、話しが終わったら聞いた人の心のケアまで気を配る、その姿はとても新鮮に映りました。常に相手の状況を考慮する。自分の置かれている状況が、その場にいる他者と一致している保証はどこにもないのだ、と私は改めて気づかされました。「ものづくりや表現は、世界を観察することから始まる。世界を観察するためには、その世界を観察している主体、つまり自分を観察する必要があると思った」というブブさんのお話を聞き、自分自身の存在とその置かれた状況にきちんと向き合ってきたからこそ、人とも真摯に向き合うことができるのだなと痛感しました。(イムイェヒョン)

Profile

ブブ・ド・ラ・マドレーヌ

(BuBu de la Madeleine)

1961年大阪市生まれ。美術作家。主にパフォーマンスや映像等を制作。HIV/AIDSと共に生きる人や性風俗産業で働く人と顧客の性的健康を支援する活動にも携わってきた。京都造形芸術大学非常勤講師。

本文中の役職、肩書き、固有名詞、その他各種名称等は全て取材時のものです。

Interview! vol.02_誌面

ⅰ世界有数の温泉地として知られる大分県別府市を活動拠点とするアートNPO。この町で、国際芸術フェスティバルを開催することをマニュフェストに掲げ、2005年4月に発足して以来、現代芸術の紹介や教育普及活動、人材育成講座や出版事業、市街地の空き店舗をリノベーションする「platform」制作事業など様々な事業を実施している。

ⅱ1974年群馬県生まれ。京都精華大学専任講師。名古屋大学大学院修了。文学博士。専門は地域研究。著書に『ミルフィユ04-今日のつくり方』(共著・赤々舎2012)など。

ⅲKASHIMA 2012 BEPPU ARTIST IN RESIDENCE vol.4ブブ・ド・ラ・マドレーヌ+山田創平。2012年11月3日(土・祝)~12月2日(日)、platform02にて行われた。「KASHIMA2012」は、温泉が育んだ独自の文化が根付くこの別府という町を舞台に将来、世界的な活躍が期待されるアーティストの発掘、および日本国内のアーティストや地域住民との交流促進を目的に展開するアーティスト・イン・レジデンス事業。今回は雨森信氏をキュレーターに迎え、2010年から継続的に別府を訪れ、制作を続けてきた2組のアーティストによる展覧会を開催した。

ⅳDumb Type。1984年に京都市立芸術大学の学生を中心に結成されたアーティストグループ。京都市立芸術大学在学中から海外公演を含めた活発な活動を続け、現在でも拠点を京都に構えながら、海外公演を中心とした活動を行っている。建築、美術、デザイン、音楽、ダンスなど異なる表現手段を持つメンバーが参加し芸術表現の可能性を模索する。

ⅴダムタイプが1994年に発表したパフォーマンス。1992年にリーダー的存在であった古橋悌二氏が自らのHIV感染を公表した出来事と、90年代の京都におけるジェンダーとセクシャリティをめぐるさまざまな社会的活動と密接に関係している。この作品を再評価する機会として、2011年9月21日から2012年2月4日まで早稲田大学坪内博士記念演劇博物館で、現代演劇シリーズ第38弾として「LIFE with ART ~ダムタイプ『S/N』と90年代京都〜」が開催された。

ⅵ1990年の作品。文明に翻弄される身体というテーマが扱われている。

ⅶ drag queen。男性が女性の姿で行うパフォーマンスの一種。男性の同性愛者が性的指向の違いを超えるための手段として、ドレスやハイヒールなどの派手な衣裳を身にまとい、厚化粧に大仰な態度をすることで、男性が理想像として求める「女性の性」を過剰に演出したことがその起源にあるといわれる。近年では男性の異性愛者や女性がこれを行うこともある。また趣味としてこれを行う者からプロのパフォーマーとして活躍する者まで、ドラッグクイーンの層も厚くなっている。

ⅷ 『À la recherche du temps perdu』マルセル・プルーストによる長編小説。1913年から1927年までかかって刊行された。ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』と共に20世紀を代表する小説の一つとされている。

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