top of page

芸員の菅原真弓

——まずは、菅原さんが学芸員になったきっかけを教えてください。

 私は大学生の頃、哲学科美学美術史系というところに籍を置いていて美術史を学んでいました。その中で幕末の浮世絵版画を観て、「とてもポップなものだな」と思って興味を持ったんです。

——『ポップ』というと?

 私はもともと、「日本美術史なんてのはとても古くさいものだ」と思っていました。ですが、昨年大阪市立美術館でも展覧会をやっていた「歌川国芳」という浮世絵師のある作品を観てとてもポップだと思ったんです。その作品は画面の左側にいかにも江戸の絵という感じの女性が描かれていて、その近くに武者姿の男性が描かれています。しかし、その画面の右側にものすごく正確な、陰影まで施された巨大な骸骨が出現するんです。「三枚続」と呼ばれる、横幅75センチ、縦40センチ弱くらいの画面、その3分の2ほどの空間に、まるで解剖図から出て来たような骸骨の絵がとても大胆に配置されているんです。その異質でアンバランスなものが一緒に存在している画面、それが面白いと。また、これはポップだ、と思ったんです。

——なるほど。

 今でこそ大きな美術館で展覧会をするようになりましたが、私が大学に入った1986年くらいの頃、歌川国芳は全くと言って良いほど注目されていませんでした。私がその作品に出会ったのはその頃です。当時、私はあまり真面目な学生ではありませんでした。ある時、講義でレポートを書かなければならないのを知って、慌てて必要な資料を探したんです。そして、ようやく手に入れた資料のページをめくっていると、偶然その絵を見つけた。そして衝撃を受けたんです。この絵との出会いが日本美術史をちゃんと勉強しようと思ったきっかけになったのだと思っています。卒業論文もその画家をテーマにして書きました。論文を書いている時は、如何にして海外から図鑑などが日本に入ってきたのか、また、その中に「異質なもの」が画面にあるか、そういうところに興味を持って、勉強を進めていた記憶があります。私が最初に観たその作品の図版は白黒でしたが、白黒の図版でもこんなに面白いと思うのなら、自分も含めてみんなが「古くさいな」「つまらないな」と思っているものでも、プレゼンテーションの仕方によっては楽しんでもらえるものになるんじゃないかと思うようになりました。また、せっかくこんな面白い作品を調べる事ができるのだから、それをみんなにも観ていただいたらみんなも楽しいのではないのか、とも考えるようになったのです。それが自分が学芸員になろうと思ったきっかけだと思います。

——では、その学芸員という今のご自身の仕事に対する「こだわり」を教えていただけますか。

 仕事に対するこだわりというものを考える時、私は「本当の意味での裏方」でありたいといつも思っています。私がクリエーションをするのではなくて、あくまで作品が主役。最初のきっかけがそうだったからだと思うのですが、その絵が好きだから「その絵」を観てもらいたいと思うし、それが大切だと思うのです。こう、「ここをこう観ろ」と私の考えを押し付けるのではなくて、作品を観てそれぞれの考えで楽しんでいただけたら一番だと思います。「私がやった展覧会」ではなくて「作品が主役の展覧会」を作りたいというのが、自分の学芸員という仕事に対するこだわりだと思います。

 

学芸員とキュレーターの現状

——少し気になったのですが、学芸員やキュレーターの方たちって経済的な面はどうなっているんでしょうか。

 人それぞれだとは思いますけど、日本の博物館、その中には美術館も含まれるのだけど、いわゆる公立美術館では学芸員の給料は公務員の給料と同じですね。都道府県の一部では研究職として採用してくれるという所もあるけれど、市町村以下の美術館の場合には大概、一般事務職の職員として学芸員を雇っているんです。でも、やっている仕事の内容は同じなんですよ。経済的に恵まれているかどうかと言えば、あまり恵まれていないと言ったほうが良いと思いますね。キュレーターは、展覧会に対する企画監修の給料という形だから、一本の展覧会でこれだけ、という報酬の支払いになるのかな……。その人の名前で展覧会ができるぐらいの実力を持ったキュレーターが日本でどのくらいいるのか詳しくはわかりませんし、恵まれているかどうかも不明ですね。やっぱり人によると思います。

——キュレーションの仕事とほかの仕事を兼業なさっている方っていらっしゃるのでしょうか。

 展覧会の企画自体を作って、お金を集めて、と全部やるというのはありえるでしょう。プロダクションを作ったりして。ただ、日本はお金を集めるのが大変だと思うんです。海外のキュレーターだと、なにか事業をやるといった時、お金を取って来るところから始めるんですね。海外だと寄付が盛んですから、寄付をしていただいたりするわけです。向こうでは文化事業にお金を提供することがある種のステータスですから。賛同してくださる人を集めてひとつの企業体を作って、それで展覧会をするという事があります。でも、日本ではなかなか難しいね。

——そうですね。日本にはそのような文化はあまりないですよね。

 だから、やるって言ったら団体を作って、それこそ周りの自治体や企業に募ってお金をいただくという形でやっているんです。キュレーター1人でやるというのは、なかなか大変です。その一方で、美術館や博物館といった館に所属しているような学芸員は税金が降ってくる中で仕事をするから「経済感覚が薄い」という批判を受けたりする。それが日本の学芸員とキュレーターの現状だと思います。

 

東日本大震災

——2011年3月11日、東日本大震災がありました。今、3.11にどう触れていくかという難問に、想いや情報を発信していくべき表現のプロの方達も黙ってしまっている状態にあると聞きます。菅原さんは、作品を展示するという形で情報を発信していく学芸員という立場にあって、3.11にどう向き合っていこうと考えていらっしゃるのでしょうか。

 そうですね。創作をする人にとっての3.11と、私のような裏方の考える3.11をテーマにした事業っていうのはまた違うものなんだと思います。今、多くの作家達が3.11というものをいたずらに、自分が知りえない事をテーマにすることに対して怖くなっていますよね。当事者でない自分がどういう距離感を持って3.11と向き合うのか、同じ時代の日本に生きていたというだけの距離感でいいのか。それを知るべきなのか、近くに行くべきなのか。被災者にとって、ただの物見遊山のように見に来られるのは嫌だと思うだろうし、しかし、風化していくのは怖い。じゃあ3.11をテーマにした展覧会ができるかと言ったら。

——難しい。

 そう思います。でも、例えば文化財レスキューの話がありましたよね。被災地の歴史文化財が被害を受け、それを救いたいという営みがあったわけです。それを伝えるというのはありだと思います。あるいは、宮城県立美術館であるとか、石巻市の博物館といった震災の被害を受けた館の収蔵品を持って来て展示を行う、というのもありなのかも知れない。『報道写真』としての展覧会というのもありかも知れないと私は思います。

——間接的に伝えるという事ですね。

 そう。また、展覧会の目的をチャリティーに、というふうにする。そうでないと3.11はやはり対岸の火事であって……。自分は安全なところに身を置いていながら3.11をテーマにする恐怖というものは、みんな感じるものだと思うんですよね。

——そうですね。とても怖い事だと思います。

 私は3.11について過剰反応してしまうところがあります。個人的な事情なのですが、母の実家が石巻市なんです。津波に飲まれこそしなかったけれど、築100年のその家は大きく亀裂が入って半壊状態になってしまいました。そこにはもうおじいちゃんもおばあちゃんも住んでいなくて、住民票を置いている人がいない家は建て直すときに公的援助が受けられないと。それで結局、取り壊しをしたんです。そんな事があったけれども、自分は今関西に住んでいて、3.11以降も生活に困る事なんて何もなかった。関東では計画停電があったりしたのに。私の実家は東京にありますが、実家に帰るたびに、東京はなんて暗いんだろうって。大阪はこんなに明るいのに、京都はこんなに明るいのに。それで、自分はとても楽なところにいるのだと思いました。そういう自分がすごく嫌で、だから善行としてする募金もいたずらにできない、とすごく思うんですよね。私にとって3.11という問題は本当に難しい。だから、「お気楽に3.11を展覧会にするのはどうなんだ?」という風に感じてしまうんです。これは一学芸員としてというより、縁のある土地だからというのが大きいと思います。

——では、3.11によってご自身の考えなどに変化があったのでしょうか。

 3.11でなにが変わったと言ったら、そうだな、最初にお話したように、私は日本美術史が専門なのですが、美術史の授業などを行う時、例えば平安時代や鎌倉時代のものを紹介する時に、「これが残って来たことは奇跡なんですよ」という投げ方をします。残っているってすごく素敵な事だって。それで私たちは何百年も前にできたものを観る事ができる。それってすごい事ですよと。でも、3.11以降は、今残っているもの、それは何百年前のものだけではなくて、今まさに作られつつあるもの、そういった今あるものを未来に残していけるように、そういう研究者でありたいと思うようになりました。伝える事は大切です。だけど、3.11以降は残すこと。なるべく良い状態で残していくという事。それが学芸員の仕事ではないかという風に思います。

——それが学芸員としての在り方ということですか。

 うん。かなぁ、と思います。誰にもそれを強要するつもりはありませんが、自分の中では「あ、こうやって地震で物が無くなってしまうんだ」という実感があるので。年代的に私は阪神淡路大震災も経験しているのですが、当時の大阪出光美術館に飾られていた陶器はほぼ全部が割れたと聞きました。神戸市立博物館の展示物もそう。勿論、今回の3.11もそう。それを知っているから、奇跡のように残ってきたものを次の世代にも、100年後にも残していけるようにしたいと思うのです。それを独りよがりに思っていたら理解されない。だからそのために伝えていくことは大切なのかなと思います。「こういうものが今作られているよ」「1000年前から残っているよ」って。それを来館してくださるお客様に観ていただいて、「これおもろいやん!」というふうに思って貰えたら、潜在的に、残していこうと思う方たちを増やしていけるのではないかと思うのです。残していこうという意思がなければ物は残りませんから。

 

これからの目標

——では、最後に今のご自身の目標を教えてください。

 継続していく事です。今も日本美術史の勉強をしているのですが、それは残すための研究だと思って続けています。面白いよって言ってくれたら残るやん。残そうっていう意思が増えるやん! だからそれを継続していくことが今の目標ですね。

——ありがとうございました。

Profile

菅原真弓(すがわらまゆみ)

1999年学習院大学大学院人文科学研究科哲学専攻博士後期課程単位修得退学。2008年博士(哲学)取得。財団法人中山道広重美術館学芸員を経て、現在、京都造形大学准教授。日本美術史を専門としており、幕末から明治への転換期の日本美術、特に浮世絵版画を中心とした版画媒体に関心を寄せる。著書に『浮世絵版画の十九世紀 風景の時間、歴史の空間』(ブリュッケ 2009年)『謎解き浮世絵業書 月岡芳年「和漢百物語」』(二玄社 2011年)がある。

東日本大震災という大きな出来事を学芸員という視点で語っていただいた。残していこうという人の意思がなければ、自然災害が、時間の流れが、今ある物を無くしてしまう。これは学芸員の世界だけの話ではないと思った。自分の周りにある「今」は当たり前にあり続けるわけではない。守らなければいけない素敵なものを残していけるかは、私たち一人一人の残していく意思にかかっている。(松浦由奈) 

歌川国芳『相馬の古内裏』(http://bakumatsu.orgより引用)

菅原真弓さん

Interview_02

Interview! vol.1収録ページ

「残っている、作られている、『今』を残していく事」

今回は、京都造形芸術大学芸術教育資格センター教員の菅原真弓さんをゲストに迎えた。自身も美術館で学芸員として働いていた経歴を持つ彼女に、学芸員になったきっかけ、その仕事に対するこだわり、そして、2011年3月11日の東日本大震災の発生が菅原さんにどのような影響を与えたのかを聞いた。

著書:『浮世絵版画の十九世紀 風景の時間、歴史の空間』

CiNii(http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB00262008)より引用

著書:『謎解き浮世絵業書 月岡芳年「和漢百物語」』

アマゾン(月岡芳年-和漢百物語-謎解き浮世絵叢書-町田市立国際版画美術館/dp/4544212049)より引用

Interview!vol.1 誌面

本文中の役職、肩書き、固有名詞、その他各種名称等は全て取材時のものです。

bottom of page