Interview_06
垂水佐敏さん
〜垂水佐敏より愛を込めて〜
真心から叱ってもらえる。真心から褒めてもらえる。時に壁のように、時に父親のように、垂水先生は僕たち生徒の前に立ちはだかり、どうしてもこの人をうならせたいと思わせられる。3年生になり垂水ゼミを受講し始めて3ヶ月。積み上げられてきたキャリアや実績は勿論のこと、垂水先生自身から溢れ出るエネルギーや言動に魅せられた僕は、その創造の源や人生に対する哲学を知りたくて仕方がなくなった。65歳の現在も世界を駆け周り、パワフルに活躍され続けている垂水佐敏教授にお話を伺いました。
父親代行とか
——まず、垂水先生を見ていて一番に思うのは、どういったスケジュールで一週間を過ごしていらっしゃるのかという事です。大学教授の他にも多くの肩書きをお持ちですが、どのような一週間ですか?
あぁ全然楽だよ。学生とスーパー銭湯に行ったりね。Facebookとか授業で接していて忙しいと思っているのかもしれないけど別に楽だよ。でも、博報堂のクリエイティブディレクターとかコピーライターをやっていた時のスケジュールは、もうそんなもんじゃなかったね。広告は得意先があってのビジネスだから。得意先の需要に応えなければならないもんね。ほとんど寝てないとか家に帰ってないとかね。「いつ子供が出来たんですか? 」とか言われて、「たぶんオレの子供やと思うねんけどなぁ」とか言って。博報堂で一応定年を迎えてからは余裕ができた。でもこの大学の先生をやったり、それから、韓国・中国・タイ・インドへよく行ったりするのね。海外ブランチの博報堂のクリエイティブスタッフにクリエイティブを色々教えてるわけです。それから日本広告学会の会員としての研究もやっています。あと、葵プロモーションのスーパーバイザーっていうのも、映像制作のね。それから北京モーターショー用の映像作品もこの間作った。中国人のデザイナーとかコピーライターとかプロデューサーに指示しながらね。あと、北京博報堂クリエイティブ総顧問もやっている。それであとは君たちの父親代行とかスポンサーとか(笑)
個人の閃きが世の中の価値を変える
——1970年にコピーライターとして博報堂に入社され、1989年にはクリエイティブディレクターになられましたが、それはご自分の意志だったのでしょうか?
いや、それは博報堂の人事が決めた事で、ボクは一生コピーライターでいたいと思っていた。コピーライター兼副社長なんてかっこいいなぁなんて思うやろ。まだ書いてんの? みたいな、そんなんがいいなと思っていた。若い時はね。
——コピーライターを志すようになったきっかけを教えて下さい。
アメリカの作品で、VOLKSWAGEN「Think small.」ⅰの広告に出会った時、こんな面白い仕事が世の中にあるんだと思った事がきっかけです。その広告を考えた人、そのアイデアを生み出した個人の閃きが世の中の価値を変える事が出来る事を知った。これは凄い仕事だなぁという事に大学3年生ぐらいの時に気が付いて、これは面白いと、これを職業にしようと思った。
——大学では何を専攻されていましたか?
文学部新聞学科。日刊スポーツの記者になろうかなと思ったり、アサヒ芸能の記者になろうかなと思ってた時もあったけど、断然広告のクリエイティブの方が面白いなぁと思った。
——どちらかと言うと文系だったんですか?
いや、どっちかって言うと理系だよ。例えばV0とか言っても分からへんやろうけども、真空管式ラジオとか自分で組み立ててた。
——今で言うオタクみたいな一面もあったんですか?
いやいや、そうじゃなくて科学少年かな。野球もよくしていた少年時代ですよ。オタクタイプでなく、日本の団塊世代が過ごして来た様な健全な、何にでも興味があるみたいな育ち方をしましたよ。ボクたちが育って来た環境は、日本の高度経済成長期の真っただ中だから。君たちは多分、安定期の何でも手に入る、与えられた情報のどれを選ぶかっていう環境の中で育っていると思うんだけど、ボクたちは何をやっていこうかっていうのを自分の手で、自分の目で探さなくてはいけなかったから、行動範囲が限られる子どもの時から既に貪欲で、色んな物を作ってみたり手を出したりしていたよ。理工系、文系みたいな分け方もなくて、ただ興味のあるものを追い掛けて、江戸川乱歩を全部読んだりシェイクスピアを全部読んだり。少年模型飛行機大会に出ようと八尾空港まで行った事もあるよ。模型飛行機を自転車に積んで港区から八尾空港まで行った時に、途中で折れてしまって、泣きながら帰って来たりなんかして。ボクらの年代が、敗戦後とんでもない復活を遂げてきた日本の経済成長を牽引してきたみたいな事を言われるけれど、そういう意識は全然ないよ。ただ好きな事を好きな様にやって来たら結果的にそういう事が付いてきたみたいな気がする。
良いアイデアが形になること
——仕事を通じて最も充実する瞬間や、芸術力・クリエイティブ力を発揮していると感じられる瞬間はどんな時ですか?
それがいっぱいあって、君たちがたまに良いアイデアを出したりするでしょ。そんな瞬間はすごく良いんだよ。最高の快感。昨日、全然ダメだと思ったから@カフェⅱでコーヒーを飲みながら授業をやっていたら、ある生徒が「先生こんなんどうですかねぇ」とか言って、すごく良いアイデアを出したんだよ。まあ、どうまとめられるかはまだ分からへんけどね。その時ボクはすごく機嫌が良かったはず。
——人から良いアイデアが出た時に、悔しさや嫉妬心は起こりませんか?
あー、そんなのはもう30年、40年前からありませんね。むしろボクが嫉妬するより嫉妬されてたかな(笑)それとボクは目線が大体一緒なんだよ、昔からそうなんだけど。年齢は皆の3倍くらいなんやけど、考えるのは同じやと思ってるからさ。ボクが良いアイデアを出すとか、君たちが良いアイデア出すとかっていう事じゃなくて、それはタイやから。君たちの才能がポッと出た時、良いアイデアが出てそれが形になるとか、そういう時は気分が最高に良くなる。
「心は若いか」
「オーラはあるか」
——複数の課題などを同時に進行させなければならない時、僕は全てを投げ出してしまいたくなる事があります。垂水先生はそういう状況をどのように乗り越えてこられましたか?
みんな絶対信じられないくらいの数字なんだけど、博報堂の垂水チームで一番忙しい時は、一ヶ月に16本のプロジェクトを持ってたのよ。その16本も全部一流どころのクライアントばっかりで、パナソニックが11本くらいで公共広告が2本とか、サントリーが1本あってどこがなんやで、もうどうしたらいいか分からへん。その中で16のプロジェクトを仕上げるとかって言ったら、今思うと何で出来たのかよく分からんのやけどなぁ。それでもやっぱり追い込まれたらやるでしょ。みんな仕事やとか課題に限って、忙しいからとか苦手やからどうやっていいか分からないみたいな逃げ口上をよく言うんじゃないかな? 置き換えてごらんよ。7人の美女からラブレターが来たら絶対スケジュールを組むやろ? それなのに7つのプロジェクトが来たら出来ませんとか言うのは嘘です。仕事もデートも同じ様に一生懸命やる。で、そのうちに本命を絞っていくやんか。5人は捨てて2人にしようとか。その代わり2つは特上の物を作ろうとかやらないと。
——妙に説得力のある例えで納得してしまいました(笑)
昔SMAPの売り出しをジャニーズ事務所と一緒にやったときに、「よおっ! 」とか言ったら中居君とかが大阪のオモロイおっちゃんが来たみたいな接し方をするの。ジャニーさんのアパートでお昼ご飯を食べながら打ち合わせをしたりとか、そんなんって楽しいわけやん。そういう事も含めて十何本くらいのプロジェクトをやりながら東京、大阪を行ったり来たしてさ。SMAPを好きになるとか、そんで次に来てる新しいパソコンの仕事を好きになるとか、献血をしてもらうためにはどうしたらいいかとかさ、そういう事を考えるのが面白かったわけやな。だから面白いとか興味があるとか、作品が実現されると世の中の役に立つとか、世の中から褒められるなぁとかさ。3つ4つテーマが来た時にこんがらがってギブアップしたくなるっていうのは、対象への興味が薄いんだな。愛してないんだよ。ボクは愛してたから、みんな。クリエイティブで一番大事なもんは愛ですよってよく言うんだけど、それを好きにならないと、世の中には伝えられないよね。好きにならないとアウトプットは絶対に出来ない。それが好きで作り出された物を見た時に「これ面白いね」って言うと思うねん。広告は、一生懸命100点以上にしようとしてアウトプットした結果って、やった後に必ず評価が来るんだよ。良いとか面白いとか、売れるとかさ。その評価の目標値に対しての努力のプロセスが楽しいんだな。若いクリエイターとか、学生に「心は若いか」「オーラはあるか」という事をいつも言っているんだけど、これは一番大事な事。みんなオーラってあるんだよ。ボクの作品は「これ、すごい垂水節だな」ってよく業界で言われていたんだけど、それは個性が全面に出ているという事。あと心が若くない人ってけっこういるでしょ。年上の人でも、「あ、この人心が若いな」っていう人もいるし、30代ぐらいでも学生の中でもさ、「絶対お前、オレより年取ってるわ」とかっていう人もいるわけです。
——それは分かりやすく言うとどういう言葉になるんですかね。好奇心だったりですか?
やっぱり愛やろうな。一番大事なのは愛だよ、やっぱり。愛だよ、愛! 十六茶を愛するのも、彼女を愛するのも、人間を愛するのも、母親を愛するのも全部一緒やと思うよ。コミュニケーションという事を自分の職能にするならね。好きにならないと伝わらないよ、っていう事やな。
——「オーラはあるか」というのはどういったものでしょうか?
愛に比例して出てくるものじゃないかな。課題が出てなんか嫌やなぁと思ってやってたらいつまで経っても生まれないけど、ひとつガーンとモノにするとすごい自信が生まれる。その瞬間に小さなオーラが生まれて来て、オーラの貯金が始まる。女の子は彼氏が出来たら綺麗になるやんか。彼氏が出来たり彼女が出来るっていう事は、自分の個性や見た目とかに自信が持てるっていう事。 だから自分が好きなものがガーンと出来て自信がついた時、好かれる事が出来た時に、その内面の自信が外へ滲み出て初めてオーラができる。だからそんな機会にいっぱい出会う様に心掛ける事。100やったら2、3は絶対に成功するから。例え100やって100失敗したってかまわないやんか。ただ、やらずに寝てるだけっていうのが一番あかんなと思うよ。ボクは歌の詞をいっぱい書いているけれどⅲ、作詞は仕事のコピーを書くよりしんどいね。一番やったらすぐ書けるのに三番まで書くのは大変なんだよ。でも、「やります!」とか言ってそういう事を引き受けて数をやっていく方が良かった。そういえば阿久悠さんⅳの詞をボツにした事がある。「これあんまり面白くないわ、オレ書くわ」とか言って。そうする事で、責任を持って書かないといけない所へ自分を追い込んできたわけです。
メシを奢ってもらおうと
——垂水先生の、将来の目標や野望は何ですか?
野望とかはない。引退したらタイに住もうと思っていたから、それを実行して今住んでいるんだけど、タイの大学に入ろうかなとか。韓国語を勉強しにもう1回韓国へ留学しようかなとかも思っている。それから、今アジアの映像会社のネットワークを作っていて、韓国の弟子とかタイの弟子とか中国の弟子とか、弟子がいっぱいいるから彼らにネットワークを作らせようと今動いてる。
——あとの世代に基盤を残そうという意識からですか?
いや、ないない。全部オレが成功させた後にメシを奢ってもらおうと思っているだけ(笑)
本文では構成の都合上、やむ無く割愛しましたが、インタビューの現場に現在4年生の教え子の方が二人同席されていました。厳しさは愛情の裏返しとはよく言いますが、実際にそれを感じられる場面はそう多くありません。しかし、お二人と垂水先生が就職や過去の授業等について話されている様子は、まるで親子の会話の様な厳しい愛情(優しい愛情も)に溢れていました。垂水先生を垂水先生たらしめているもの。それは〝愛情〟であると確信します。ご自身の仕事に対する愛情。出来事に対する愛情。人に対する愛情。そして、僕たち生徒に対する愛情。あらゆるものに愛情を込める垂水先生だからこそ人々を魅了する数多くの作品が生み出され、僕たちはその流儀に触れる事で、創作とは如何なるものかの真髄を学び取ってゆくのだと思います。(山尾有司)
Profile
垂水佐敏 たるみさとし
京都造形芸術大学/情報デザイン学科 教授
関西大学卒業。1970年博報堂入社/コピーライターから1989年クリエィティブディレクターとなる。松下電器・松下電工・日清食品・TOYOTA・大日本除虫菊・東洋ゴム工業・公共広告機構など幅広いクライアントのクリエィティブをてがけ、そのクリエィティブフィールドは広い。 日本ではTVCMの最高賞であるACC賞で、ACCスポットグランプリをはじめ制作者賞などACC賞受賞作品は70作品をこえる。ほかに、フジサンケイ広告大賞、よみうり広告大賞を2度受賞。総合広告電通賞及び制作者賞を複数受賞。カンヌ国際広告祭、金賞2作品、銀賞3作品はじめカンヌ入賞は10作品をこえ、アジアンパシフィック銅賞、CLIO賞、IBA賞,NYアートディレクター賞など複数の国際広告賞の受賞暦をもつ。
主に日本と韓国、そして世界での広告賞受賞は200を超える。ACC審査員、OCC審査委員長2度、国内外で各種講演をこなすなどのキャリアをもつ。TVCMの演出家としても220作品をこえる作品を制作している。また作詞家でもある。
ⅰ ドイツの自動車メーカVOLKSWAGENが1959年よりアメリカで打ち出した伝説の広告キャンペーン
ⅱ 京都造形芸術大学内のカフェスペース
ⅲ 石川さゆりの楽曲の歌詞などを手がけている
ⅳ 日本を代表する放送作家、詩人、作詞家、小説家
Interview! vol.1 誌面
作詞を手がけた石川さゆり『朱夏』
石川さゆりオフィシャルウェブサイト(http://www.ishikawasayuri.com/discography/single/1997/)より引用
本文中の役職、肩書き、固有名詞、その他各種名称等は全て取材時のものです。