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Interview_04

奥田輝芳さん

芸術は人に何を与えるのか?

 京都造形芸術大学美術工芸学科油画コースの教授をなさっている奥田輝芳先生に、学生時代はどのような作品を作っていたのか、教授になられるまでにどのような生活をしていたのか、教授という仕事をしていて感じる事や作品を創る上で考えている事や常に意識している事についてお話を伺った。

——奥田先生は滋賀県ご出身と伺っているのですが、現在は京都にお住まいなのですか?

 いいえ、今も滋賀県に住んでいます。

——お仕事はどういった時間になさりますか?

  僕は午前中に仕事をするタイプの人間で、授業は水木金と受け持っていますが、朝に制作をしています。自宅に仕事場を持っていて、そこで制作をしています。アトリエと呼ぶような大層なものではなく、普通の民家の10畳ぐらいの部屋で描いています。前は京都市立芸術大学の近くの西京区で借家を借りて、そこで描いてました。

——制作の場所は広い方がいいと感じたことはありますか?

  暖房代等を考えたら狭くてもいいかな(笑)。多分それは今後も絵を描き続けるために向き合わなくてはならないシビアな問題だと思います。

——先生は京都市立芸術大学に通っていたそうですが、当時も今制作しておられるような作品をお描きだったのですか?

 いいえ、違いますよ。木をパネルと組み合わせたような作品とかを作っていました。

——絵ではなく、立体の作品が多かったのですか?

  学部の頃はレリーフ。大学院の頃にはもうちょっと前に出てくるような、例えば壁から70㎝くらい出てくるようなもの等です。

——今の先生が描かれている作品からは想像がつかないですね。

 今は“描く”という仕事をしているけれど、当時作っていたのは全然違うものでした。1980年代の初めの頃はインスタレーションⅰが物凄く流行った時代だったのですが、現代美術の先端を行っていたアメリカから情報が入ってくるには3ヶ月くらいのタイムラグがあり、僕が学生の頃は、1960から1970年代のミニマルⅱ、コンセプチュアルⅲが流行っていたんです。どうしても、あの時代はアメリカの美術を見て自分たちも美術をやろうという気持ちが芽生えてくるような時代でした。

——その頃にはロスコⅳやポロックⅴの絵は流行っていたのですか?

  もう流行っていませんでした。一世代前というか。ロスコやポロックは1950年代から1960年代に流行った人達で、その頃って僕が1958年生まれ、せいぜい小学校の時とかそのくらいの頃だから、ずっと昔の話。日本でも少し遅れてミニマルが流行っていて、しかし外国のミニマルと比べると精度が高い反面、表面的だったように思います。学生の頃から僕は人体や風景を描いたりではなくて、もうちょっと新しい事をしようという絵でしたから表面的でいいから、軽い仕事をしたかった。元々ミニマルというのは彫刻から出てきている概念だからか、僕のまわりの彫刻をやってる人達がそういった先を行ってました。ジャッドとか、バーネット・ニューマンも彫刻の作品を創っているんだけども、1960年代にプライマリー・ストラクチャーズというのがあって、そういう仕事などからミニマルという概念が固まったんです。ただデカーい壁に一色二色くらいでバッと塗ってあるだけの作品は、絵画というよりも「モノ」や二色に塗られた「壁」と言い表した方がふさわしい。そういう感じの作品が絵画のミニマルアートとして注目を浴びていました。ロスコもどっちかと言えば色数少なくて、縦とか横とかあるけども非常にシンプルなのね。ロスコは具象から発展してきている抽象表現主義者だけど、もうちょっと抒情的な部分があります。内面的な部分が滲み出てきていて、味が凄くある。あの人はロシアから移住してきた人だから、味わい方や制作の仕方がアメリカの凄くドライな現代美術とはひと味違いました。僕の学生時代は様々なアートが出現してましたからポップアートも流行っていたのですが、僕はそっちには手を出さず、もう少し要素を少なくしてミニマルの究極を求めていった方がかっこいいと思っていたのです。「究極」って言葉としても魅力的やん(笑)。「これやってたら誰にも負けへん」って思ってずっとやっていました。

——「究極」ですか、何だかすごそうですね。

 でも、何も表現しないというか、表現自体を少なくしていくものだから、絵を描くのが楽しいと思って描いていたのに、「究極」の為には描かないほうがいいという矛盾を孕んだものになってしまった。そういう状態で徐々に欲求不満になっていくんですよ。「究極」なんだけども、「描く」楽しみが薄れて、作業になってしまったんです。

——作業ですか・・・・・・。

  はい。やはり作業になってくるとつまらなく感じてしまいます。今も僕はよく言うのですが、「絵画もモノである」と。その延長線上で考えると、壁からレリーフが出て行くっていうのも絵画だし、そういうのが床に広がっていくのも絵画。どっちかというと、素材を絵具から木とかモノに代えて、自由にドローイングしたり、モノによってドローイングを続けていくような、絵画から延長したような仕事を27歳くらいの頃までやっていました。

——先生が現在の平面の表現に戻ってきたのには、何か転機があったのですか?

  個展とか、グループ展とかで作品を発表をしてきたのですが、満足のいく手応えや評価を得られなかったんです。見に来てくれる人達はいいねと言ってくれたのですが、どこがどう面白いのか自分でも分からなくなっていました。「これでいいのかな? 」「もっと方法はあるんじゃないか? 」と迷いながら描いていました。それで一時期発表するのを止めて、家に籠ってドローイングをやっていたのですが、その時に色んな物を描くだけでも出来るなって気付いたんです。線を一本引っ張るだけ、並べ方ひとつ工夫するだけでも色んなものが描ける。線を探って描く楽しさというものに気が付いたんです。それが転機かな。

 

自分を象徴する一つの力と仕事の中での刺激

——先生がこの大学の教授になった時、どんな気持ちでしたか?

  教授ってこんなに安っぽくていいのかと思いましたよ(笑)。教授ってもっと凄いものだと思っていましたから。大学で学生を教えるって、そんなこと僕に出来るのかなって不安に思っていました。肩書きとしては油画の教授ですが、僕自身の作品はほとんどアクリルで描いていますし、油画で作品を描いていたのは大学の2年生までなんです。だから油絵具の使い方を教えてくれと聞かれる度に困惑していたりもしました。でも、人それぞれ専門があり、私もその専門の事は何でも語れますから。一つ脇道に逸れると分からないのは誰でも、何歳になってもきっとそうだと思うようになりました。それでいいと思っています。大事にしていて、語れる部分があればね。

——先生が他の先生や学生さんから影響を受ける事はありますか?

  制作現場にいると、「これいいな」「面白いな」というのは沢山感じます。大学は毎年人が変わっていきます。毎日違うページを開いているみたいで、楽しいですよ。教員って大変だけど、そこで沢山の刺激を受けています。それがすごく楽しい。この大学の先生の仕事って、そういう刺激があるから辞める人も少ないのだと思います。

 

芸術は人に何を与えるか

——先生は「芸術」というものが社会にどのように関わっていけると考えていますか?

  そこが一番難しいですね。社会と関わるとは、人と関わるという事です。人と関わるためにアイデアをどう提案し伝えるのか、よく考える必要があります。絵を描いて発表することは作家が人と対話する行為に似ています。絵画をその対話可能なものに変えるには機能を持たせる事が重要だと考えています。

——機能、ですか……。

  例えば昔の宗教画には、キリスト教を啓蒙するという機能があり、その機能をより高い技術で見せるという役割のある非常に社会性を兼ね揃えたものでした。絵を描いて生きていきたいのであれば、そういう何らかの機能を持たせて、社会へ送り出さねばならない。また、今の絵は、個人という特殊性が重要とされていて、新しい発想、新しい感覚、新しい価値観は全て「個」から生まれるという発想で作品が作られています。現代美術にしても何にしても、「個」を魅せるというのが非常に大事にされています。それが社会と繋がっていくことにもなるので、「個」を魅せるのは重要です。ですが、ただ個人で好きなことをやっていても人には伝わりません。評価を得るためには、ある程度共通する感覚というものを意識して絵画の中に取り入れていかなければならないのです。人間の感覚は変わるもので、今の時代にピカソのように描いても売れません。その時代時代に合ったものを創作していかなければならない。それには描き手の感覚だけではなく、後押しが必要になってきます。それこそASP学科ⅵのような、評論する人達の感覚を同時にくすぐる必要があるのです。

——評論家に「おっ」と思わせる何かがなければいけない。

  そう。評論家はそれぞれ自分の評論の理論を持っていて、美術論の大系の中でどういう美術が今まで歴史的に成立してきたかという大きな流れの中で勉強していると思います。その中で新しい感覚を現代に送り出して、なおかつ評価を受けるための評論を書く為には、こういうテーマ、こういう作品が必要というのがあるのです。作家はそういう作品を描くことによって評論家を説得し、それが社会を説得するという順番で作品が認知されていくのです。そういった視野を持つ事も作家として生きていく為の一つの方法、一つの処世術ではないかと思います。けれど、この関係って半分博打みたいなところもあり、この作家を評価することによって、この評論家は駄目だと思われることもあります。最終的には大衆というか、一般的な人にも理解できるぐらいの汎用度をみせると、社会性を帯びやすくなります。その線を狙ってやっていくというのも一つの戦略でしょう。

——最後になりますが、先生は芸術というものが人に対してどのような力を持っていると思いますか?

  自然に受け入れることが出来て、高揚感をもって何かを感じる事が出来るもの。ワクワクするとか、嬉しくなるとか、僕は絵描きなので、人の作品を観て絵を描きたくなるんです。そういうのが芸術の力だと思います。自分の作品を観て「私も描きたくなってきた」と思ってくれるのが一番嬉しいです。何かものを作りたいと湧いてくる勇気。それが芸術の持つ力だと思います。

——本日は貴重なお話をありがとうございました。

 いえ、こちらこそ。楽しかったです。

 今回、奥田輝芳先生が語ってくださった事は、私たちが何度も感じた事のある想いであった。それは、作品を観て、その作品から「自分も描きたくなってくる」という思いを相手に与える事の出来る力である。今芸術に関わっている人、これから芸術を学んでいく人達にも、奥田先生の考える「芸術の あり方」を心に留めて芸術と向き合っていってもらいたい。(北村匠)

Profile

奥田輝芳 おくだきよし

1958年に滋賀県に生まれる。1983年に京都市立芸術大学大学院油絵修了。Ge展や日本国際美術展など、数々の展示会で作品を発表している。現在は京都造形芸術大学美術工芸学科の油画コースを担当している。

ⅰ インスタレーション:1970年代以降一般化した、絵画・彫刻・映像・写真などと並ぶ現代美術における表現手法・ジャンルの一つ。場所や空間全体を作品として体験させる芸術。

ⅱ ミニマル:ミニマル・アートのことで、視覚芸術におけるミニマリズムであり、装飾的・説明的な部分をできるだけ削ぎ落とし、シンプルな形と色を使用して表現する彫刻や絵画のこと。先行する抽象表現主義を批判的に継承しつつ、抽象美術の純粋性を徹底的に突き詰めた。

ⅲ コンセプチュアル:コンセプチュアル・アートのことで、1960~1970年代にかけて世界的に行われた前衛芸術運動。

ⅳ マーク・ロスコ:抽象表現主義の代表的な画家。1903年にユダヤ系の両親の元に生まれ、1905年のロシア革命によりユダヤ人の虐殺が始まったため、一家はアメリカ合衆国に移住したという過去がある。彼の作品の一部が川村記念美術館に、「ロスコ・ルーム」という専用の部屋に飾られている。

ⅴジャクソン・ポロック:ロスコと同じく、抽象表現主義の代表的な画家。アクション・ペインティングと呼ばれる、顔料を紙やキャンバスに注意深く塗る代わりに、垂らしたり飛び散らせたり汚しつけたりするような絵画の様式で描く。

ⅵ ASP学科:京都造形芸術大学の芸術表現・アートプロデュース学科。ASP学科ではアーティストの作品を一人でも多くの人にみてもらい、理解してもらい、楽しんでもらう為の方法、手段を学び、「アートと社会を結ぶ」為のプロフェッショナルを育てることを目標としている。

Interview!vol.1 誌面

Interview! vol.1 誌面

マーク・ロスコ 《「壁画 No.4」のためのスケッチ》 1958年 絵具、顔料、溶き油、膠、全卵、天然樹脂、合成樹脂、カンヴァス 265.8 x 379.4cm

© 2008 Kate Rothko Prizel & Christopher Rothko/ARS, New York/SPDA, Tokyo

 

DICk川村記念美術館(http://kawamura-museum.dic.co.jp/collection/mark_rothko.html)より引用

PN 268 舟 Boat

奥田輝芳

 

京都造形芸術大学美術工芸学科

http://www.kyoto-art.ac.jp/production/?cat=3&author=2&page=19

より引用

本文中の役職、肩書き、固有名詞、その他各種名称等は全て取材時のものです。

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