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BetweeN

インタビュアー:イムイェヒョン

教授対談

伊達隆洋(芸術表現・アートプロデュース学科)

アートは難しい「モノ」じゃなく、楽しい「コト」?

 アートの見方が変わります!

「現代美術」、「アート」、「芸術」を鑑賞することは難しい。なぜなら、すでに完成された作品というモノがあり、みる側はそこに込められた作り手の意図を読み解かなければならないから……、そう思っていませんか?  全く間違っているわけではありませんが、考え方は一つじゃなくていいのです。対談企画『BetweeN』、今回は「現代美術」、「アート」、「芸術」が楽しくなるお話。それぞれ違う分野で活躍なさっている本学の先生二人をお招きし、対談していただきました。

「モノ」じゃなく、「コト」

イムイェヒョン(以下イム):中山先生は制作活動をなさっている「作る側」、伊達先生は対話型鑑賞を研究している「みる側」として、これからお話を訊いていこうと思いますが、伊達先生の専門は臨床心理学ということですね。

伊達隆洋(以下伊達):僕自身は臨床心理学を専門としているんですけど、この学校で心理学を教えているわけではありません。臨床心理学というのは、基本的に人と人の間に起きるコトを扱っているので、この学校では作品ではなく、作品をみている人を扱っています。

イム:中山先生は、例えばこれまでどのような作品を作ってこられましたか?

中山和也(以下中山):いろいろありますが、一つあげてみると、10年以上前にみかんを転がした作品があります。夏の終わりに森に行くと、そこは木々が青々と生い茂った深緑の空間で、その空間の真ん中に坂道が100~200mぐらい続く壮観な場所だったんです。よく見ると坂の下の地面に穴ぼこが空いていたので、深緑に対照的なオレンジ色がその長い坂道を転がり、そして坂の下の穴ぼこにポコッとはまったら、ここはもっと気持ちよくなるかもしれないと思いました。そのオレンジ色の物体を夏みかんにして、夏みかんとともに、夏を気持ちよく終わらせようとした『夏みかんの終わり』(2000年、ビデオ1分2秒)という作品です。

イム:その場で思いついたイメージを実現して、その瞬間を切りとって作品にするということですか?

中山:そうです。夏みかんは買いに行きましたけど。

イム:準備はあったわけですね。

伊達:ちなみにそれを見ている人はいるんですか?

中山:いません。ビデオカメラを坂道の下に設置して、上から夏みかんを転がしただけです。でもそれがけっこう難しくて、中々みかんが穴に入らないんです。みかんを転がしちゃあ失敗して、取りに行って、また坂道を上がって、みかんを転がす。ということを何度もやっていました。

伊達:その試行錯誤の過程は、全部ビデオに入っているんですか?

中山:入ってないです。成功した1回だけをビデオにしています。でも、森の中でこぢんまり1人でやっていたものが、スペインのバルセロナⅰのスタジアムのオーロラビジョンⅱで流されることになったので、そういう意味では、結果(的に)作品ですね(笑)。

伊達:結果作品というのは面白いですね。

イム:今の話を聞いてキョトンとなされている方けっこう多いと思うんですけど。

中山:他の作品についてもお話します(笑)。『山崎さんのTシャツ』(2009年)という作品なんですが、情報デザイン学科の学生で、マンガを描きシルクスクリーンで刷ってTシャツを作った学生がいて、僕にそのTシャツをプレゼントしてくれたんです。嬉しかったので、このTシャツを使って何かできないかなと思って、「このTシャツが世界の中で一番似合うところに行こう」ということにしました。それでそのマンガをよく読んでみたら、龍の戦いの話だったので、これは中国だと。万里の長城だと思って。

伊達:龍だし(笑)。

中山:そう、龍だし。長いラインが合う場所に行こうと思ったんです。しかも、ただ行くだけじゃなくて、すぐ行こう、今行かなきゃダメだと思って、手配しました。スケジュールも沢山あったのにキャンセルして、もらった二日後に飛行機に乗れ、三日後には万里の長城に到着しました。

伊達:ちなみにその記録は?

中山:万里の長城にいた観光客に、僕のポケットカメラで写真を撮ってもらいました。それが一応作品です。そこから山崎さんに電話しました。「あの……Tシャツ着て万里の長城来ちゃった」「何やってるんですか」「だって似合うと思ったんだもん」そのやりとりだけです。

イム:モノとして作品を残すというよりは、日常生活の出来事を記録で残して、それを後で伝えるという感じですね。

中山:そうですね。その記録が結果的に作品になっちゃっているんですけど、そこもまだ考え中ではあります。ティノ・セーガルⅲというアーティストがいるんですが、その人は作品の記録をとらないんです。やっている行為自体が作品になっているわけです。だから、作品集にはビジュアルのない真っ黒な状態で掲載するんですけど、それが面白いと思って見ています。

イム:普段の日常生活でも、ちょっとした出来事はけっこう起きると思うのですが、中山先生の中で、作品と単なる日常の違いはありますか?

中山:最初はないです。ないけど、さっきの例にもあるように、もらったTシャツを見て、「これせっかくもらったし、万里の長城に行ったら似合うかも」というところからメラメラと。その行為自体が作品なのかどうかは分からないですね。

イム:伊達先生は今の話を聞いてどうですか?

伊達:作品って何? という話ですよね。「万里の長城でTシャツを着ました」と電話がかかってくる。でもその状況を直接見ているわけじゃないから、電話を受けた人にとってそれは想像ですよね。また、それが「こんなことがあったんだよ」と噂になって広まっていくと、そこに尾びれがついたり背びれがついたりもする。作品が不変なモノとしてあるのではなく、あるコトから色んな想像が起きてそこから話が広がり、当初自分が予想もしなかったようなことまで起きるという、可能性の塊みたいなものだと思います。

中山:新聞って、なにか事件があって、それが掲載されますよね。僕は新聞を自分の作品に当てはめてみると近いかなと思います。事件が僕のやった出来事で、新聞は作品化する媒体ととらえられる。

伊達:そうすると、僕がやっていることは「その新聞を読んだ人たちが、それについてどう思ったか」というものになりますね。そこで起きている社会の動き、世論などを読んで、衝撃を受けたり落胆したり喜んだり。新聞は、そこからさらにコトを起こしていくための装置。作品でいうと、「作者がこれを表現しましたよ」じゃなくて、すでにあるものから「こんなことも考えられちゃいました」みたいな形でどんどん広げていく。

中山:例えば『追い風に乗ってねらえ世界新9秒78』(2001年)という作品があります。名古屋港エリアの活性化プロジェクトの一環で、港の近くで展示させていただくことになり、港からの風が気持ちよかったから、会場を100mに区画して世界新記録の早さで走ろうと思ったんです。でも僕は世界新記録で走れないので、ちょうど名古屋に住んでいた自転車競技のBMXの日本学生チャンピオンになったことのある人にお願いして、ゴムを僕の体に結びつけて、自転車で引っ張ってもらいました。

伊達:中山先生が走るんですか?

中山:はい、僕が走りました。そこで観ている人たちが沿道を作ってくれていて、その中に小学生もいたんですが、小学生は走ることに興味があるじゃないですか。その子が近づいてきて「お兄さん、遅いよ」と。「私は名古屋の名東区の小学校チャンピオンなんです。私の方が絶対速いから、競争してください」と言われて、競争したんです。ギリギリで僕が勝ちましたけど、その子に巻き込まれて、結果その全部が作品になりました。100mを走る時点で、速く走れるかどうかも分からないし、固定されてないんです。それを丸ごと作品とするような、フレームを作ったという感じです。

伊: 今の話を聞いて「それが作品なの?」と思った人って、たぶんいるんじゃないかな(笑)。変な話、街を歩いていて「この人ヤバいな」、「この人すごいな」というような衝撃的な人とたまにすれ違ったりするじゃないですか。それはアートと言えばアートだし、でも「そんな簡単にアートと呼んで良いの?」と言われたら、「うん、やめといたら」とも思う。そこはどちらでも良いんじゃないかなって思います。こっちが決めることではないんじゃないかな。

イム:私の中ではもはやアートなんだけど、それを人に伝えるとなった時、自分が勝手にそれをアートと呼んで良いのかという葛藤がしばしばあります。その部分はどうですか?

中山:僕は自分のやっていることを、はっきりアートとは言っていません。テレビ番組的だと思われても、イタズラだと思われても、それはそれで良いと思っています。でも、タイトルを付ける時点で、美術の世界に入る入り口を示そうとしています。大学で伝えたりギャラリーで展示する場合には、タイトルを付けて「作品です」と。美術が後で絡んできた時に作品にするというスタイルですね。

伊達:“後で絡んでくる”というところが面白いですね。例えば「今この机に作品名を付けました。これは作品です」と言われたら、首をひねる人の方が多いと思うんですけど、実は首をひねってくれたら作品になるのではないかと思います。「え、なんでそれが作品なの?」と思ってくれた時に初めて「こういう意味なんじゃないの?」と色んな解釈が出てくる。

また、「それがアート作品なの?」と感じたということは、その人の中に「アートとは、こういうものであって欲しい」とか「こういうものであるべきだ」という価値観があって、それがこれをみたときに揺さぶられたということだと思うんです。だから、モノとして技術がどうこうということだけじゃなくて、それをみた人にどんな衝撃を与えられるか、みる人はどんな価値観を持っていて、そこにどういうモノを投げかけたら仕掛けとして機能するのだろうか、ということを中山先生がやっておられるのかなと思いました。

中山:僕も以前は技術を必要とする制作をしていました。でもそれは僕じゃなくてもできるかもしれない、僕はその後に発信されるコトをやるつもりだったのに、綺麗さだけで語られて終わっては作品の見所が違うんじゃないかなと思ったところから、このようなことをしています。

伊達:モノを作ることはもちろん重要だけど、それだけになると、その後に起きるコトの方に目がいかなくなってしまう。僕が勤める芸術表現・アートプロデュース学科では、「モノがアートなんじゃなくて、モノとそれをみる人の間におきるコト がアートなんだ」という話をよくしています。

イム:モノは作って終わりではなく、作っている側とみる側のお互いが影響しあい、変化していく。その全てが作品、アートだというのなら、現代美術も臨床心理学もそう遠くはないのかなと今日の話を聞いて思いました。それでは、最後に一言ずつお願いします。

中山:ここに来てもらって、考え方の幅が広がれば良いなと思いました。モノを作るためにこの大学に入ろうとしているかも知れないけど、モノを作ったあとにも見所が沢山あって、むしろそこからがスタートだと思ってくれれば良いなと思っています。

伊達:心理学をやっていると、「人は人と関わると変わる」ということを実感するのですが、僕は「アート作品と関わっても人は変わる」という思いがあります。それはさっき言ったみたいに「え、これって何なの?」と思うことで、自分の価値観が改めて確認されたり、それがきっかけとなって自分の価値観を変えてみたりというふうなことが起こってくる。大学に入って、アートと関わって、人と関わって色んなことが起きると、入学してくる皆自身もすごく変わると思います。そういう、人の変化、世の中、社会の変化をいっぱい味わうためにこの大学に来てもらうのも面白いかなと思っています。

イ:今日はありがとうございました。

ⅰ25hrs, International Videoart Show(Polisportiu El Raval/Barcelona, Spain)

ⅱオーロラビジョン (AURORA VISION) 三菱電機株式会社が開発製造している大型映像装置の名称。フルカラー大型映像装置の一般呼称としても用いられる場合がある。

ⅲティノ・セーガル(Tino Sehgal、1976年 - )

イギリスに生まれ、現在ベルリンを本拠地とする芸術家。彼が「構築された状況」(constructed situation)[1]と呼ぶその作品では、彼の考えた指示をパフォーマーが実行する(セーガル本人はそこにはいない)。セーガルは作品の売買時に、指示の文面、領収書、カタログ、写真が一切存在しないように要求している。つまり、彼の作品はいかなる形の記録も残されない。

本イベントは2012年7月29日に開催されました。

本文中の役職、肩書き、固有名詞、その他各種名称等は全て取材時のものです。

現代美術  ×   臨床心理学

中山和也(情報デザイン学科 イラストレーションコース )

 実をいうと、中山先生と伊達先生はこの日の対談が初対面でした。お二人は同じ大学内に勤めていながらもそれまでお話をされたことがないということだったので、それならば逆にそのことを活かしたいと思い(他にも様々な事情がありましたが)、対談に向けての打ち合わせは極力行いませんでした。もちろんそれは、お二人の瞬発力を信じてこその判断でしたが、先生方はやはり少し不安だったようで、中山先生はこの日、バナナを持って対談に臨みました。こちらではカットしていますが、もしもの時の為の保険だったバナナは、結果(的に)アートになりました。誰もがスッキリ納得するようなモノではないかも知れないけど、それは確かにその対談中に起きたコトです。「これがアート?」と思ったところから、すでにアートは始まっているのです。(イムイェヒョン)

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おもむろにバナナを舞台に置く中山先生。

これもアートなのか!?

足元に置かれたバナナには一切触れられずトークは続いた。

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