Interview_13
須村 仁さん
福祉:より自分らしく生きる術
「福祉」という言葉を聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。福祉国家、社会保障、生活保護、高齢者福祉、障がい者福祉、児童福祉、慈善活動……。並べられた単語だけを眺めていると、学生である自分とは関係のない、どこか違う世界の事のように感じてしまいます。しかし、福祉は「しあわせ」、「ゆたかさ」という意味を持っています。見知らぬ誰かではなく、この社会を生きる皆が、そして何よりも自分自身がより幸せに、より豊かに生きるための手段として福祉がある。そのヒントが須村さんの話にありました。
福祉の仕事
——今日はお休みでしたか?
午前中だけ仕事してきました。僕らの仕事は時間が不規則です。決まっているといえば決まっているけど、仕事がキャンセルになったり、途中で入ったりもします。毎日仕事があるから、旅行にも行けないですね。こないだ友だちが旅行に誘ってくれたけど、一日も休めないから無理だって断りました。
——毎日の仕事はどのような流れでしょうか。
担当している障がい者の人の家に行って、朝起こして、着替えさせて、オムツ変えて、ご飯食べさせて、それから顔拭いて、ヒゲ剃って、迎えにくる車のところまで連れて行くというものです。
——迎えに来るというのは?
普通、デイケアiというところに送り出すんだけど、大体三時ぐらいで終わります。お母さんたちの仕事はまだ終わってないわけですね。だから彼らがデイケアから帰ってくると、お風呂入れて、お母さんが帰ってくるまでずっと待っています。それで、お母さんが帰ってきたら、三十分なり一時間なり喋って帰ります。
——まるで一緒に生活しているようですね。親御さんがいない時は、障がい者の人とも喋ったりするんですか?
ないですね。僕が今行っているのは知的障がい者ばかりで、ほとんどが喋れないし、会話もできません。喋りかけても答えない場合もあります。身体障がい者の人とは普通にコミュニケーションをとれるけど、知的の人とのコミュニケーションは言語という形ではとれない。でも、みんな言っていることは分かるんです。例えば、オムツを変える時「オムツ持って」って言ったら持ってくれる。そうすると、僕はテープを止めるだけでいいので意外と楽だったりします。
——障がい者の方は、トイレに行ったりご飯を食べたりする以外の時間は、どのように過ごしますか?
彼らにはちゃんと自分の世界があります。だから暇はないですね。自分のしたいことをずっとやって、それが飽きて眠たくなってきたら寝るだけ。大体みんなこだわりがあります。相撲が好きな人は、ずっと相撲を観たり。ボールが動くスポーツが好きな人がいて、延々と毎日テニスを観せられていたこともあります。いつ行ってもテニスばかりで、例えばお母さんが帰ってくるまで三時間ずっとテニスを観ているんです。その前は、天空の城ラピュタを観ていたかな。十回ぐらいは観ました。しかも連続で。
——一緒に出かけたりもしますか?
お母さんが休みの日だったり、土日だったら、見守りの人と本人とで電車を見に行ったりすることもあります。本人が喜びそうなところに行って、ご飯を一緒に食べて、帰ってきたらお風呂入れるといった感じです。身体障がいが伴っている知的障がい者だったら、お母さんがずっと見ていないとだめだから息が詰まるわけです。そのために僕らヘルパーがいるようなものだと思います。お母さんたちの息抜きみたいな。福祉の理念というか、根本は「Quality of life」。生活の質の向上です。どうしたらその人がより自分らしく生きていけるかを追求するために福祉がある。要は、手段の一つなんです。
——その人と周りの人も含めて?
そう。その人がどうやって自分らしく良い生活ができるか。僕らを含めた周りの人々もそうだし、学校も社会資源です。彼らがそれをどう活用していくか。活用の仕方が分からなかったら「こういうものがあるよ」、「こうしてみたらどう?」と助言するのも僕らの仕事です。
福祉の世界に入る
——介護ヘルパーになろうと思ったきっかけは何ですか?
もともとは看護士になりたかったです。母親が看護士なので、昔から憧れはあったんでしょうね。二十歳ぐらいの時、事故で足の骨を折って、母親が勤務している病院に入院したことがあって、そのつてでそこの精神科に助手として入りました。でも実際入ってみると、看護士にいまいち惹かれなかったんです。それで、どうしようかなと考えていた頃、あるソーシャルワーカー(PSW)iiに会いました。その人は、「患者が戻ってこられたら困る」という地域住民の言葉に、堂々と立ち向かっていて、その姿に感銘を受けたんです。それでソーシャルワーカーになろうと思って、仕事を辞めて専門学校に入りました。その時はすぐ働きたかったし、二年の専門学校でいいやと思ったら、就職活動してみると職場がないんです。「資格持っていないと無理です」と言われてしまう。だから、学校卒業して二年ぐらいはバイトしながらボランティアをしていたけど、収入的に困ってきたので、精神科に就きたいという意識からある程度脳みそを切り離して、「精神科は別に今じゃなくてもいい。福祉の業界にいればいつかできる。とりあえず今は生活を安定させよう」と思って、介護ヘルパーの仕事に就きました。
——精神科に就きたかった理由は何ですか?
まずは母親が精神科で勤務していることと、僕のいとこに知的障がいの子がいて、それも影響したと思います。あとは、高校生の時に友だちがバイクで事故って死んで、二十歳ぐらいの時にも友だちが頭に細菌入って死んで、精神病になって自殺未遂を繰り返した友だちも出てきて、という経緯があったからかな。精神に限らず、福祉の業界にいる人は、なんだかんだそういうきっかけがあるんです。親がその業界にいたとか、友だちが障がいを負ったとか。そういうのがなかったら、この業界にそう簡単には入って来ないと思います。僕もその一人だから。
支援者として
——仕事をしていて、やりがいを感じるのはどんな時ですか?
ちょっとずつ、ちょっとずつ、毎日同じことを繰り返して、言わなくてもその人が自分一人で出来た時。例えば、一人で服を着られなかった知的障がいの方が、一年間毎日練習して一人で着られるようになった時に「よっしゃ!」ってなります。その人が一つステップアップすると、自分の中でやりがいを感じます。
——「一人でも出来るようにする」のは、親御さんが亡くなられた時のためでしょうか?
最終的にはそこですね。本人さんが先に亡くなることはあまりないと考えています。親御さんのほうが先に亡くなられて、その後社会福祉施設に入るにしても、環境が変わったら大変です。だから、自分のことはできるだけ自分で出来たほうが、自分のためになる。時間がかかっても、出来るのなら、ちょっとずつ練習して出来るようになったほうがいいですね。障がい者が社会に出てしまうと、損するのは障がい者なんです。例えばバスに乗って、本人は叫びたいから叫ぶけど、それでバスから降ろされる場合もある。降ろされたら意味ないですよね。また乗らないといけないし。だから「ここは叫んだらあかんよ」というのを繰り返し、繰り返し教えて、叫ばないようにするとか。
——それもヘルパーの仕事?
支援者の仕事です。ヘルパーに限らず。障がい者にかかわる人間は、皆そういうことをしないといけないんです。社会は厳しいですから。障がい者に合わせてくれないから、障がい者が社会に合わさざるをえない。
それぞれの可能性
——健常者は、障がい者を一括りにして言ってしまいがちだと思いますが、須村さんは以前、「人によって出来ることの範囲が違う」と仰っていましたね。
その人は何ができて、何ができないか。言動も含めて日常の行動をよく観察して、ここまでなら出来て、ここは出来ないと判断するようにしています。その間にグレーゾーンのようなものを設けることによって、上から、下から、グレーゾーンを突くみたいな感じでしょうか。
——もう少し詳しくお願いします……。
例えば、リミッターというものがあります。限界ですね。どう考えても出来ないことというのは存在するわけで、そんなことに力を注いでもしょうがないのです。そうではなく、その人が何をしたいのか、何を求めているのかを理解して、上の段階を目指すんです。その人の現状がレベル五なら、とりあえず六を目指す。その人の限界が八だと自分で言っているとしましょう。でも僕が思うに、その人は九までいけそうな気がするのであれば、九までめちゃめちゃ引き上げようとします。人間、一皮むけると面白くなると思うので。自分に対しての向上心は大してないんだけど、人に対する向上心はあるんです。僕はけっこう怠け者だから、自分のために努力するのは嫌いなんです。
——自分に甘くて他人に厳しいタイプですか。
すこぶる自分に甘い。人に対しては、だいたい厳しいです。でもおじいちゃん、おばあちゃんに、限界の十を目指してもしょうがないですよね。例えば、転んで骨を折ったおばあちゃんがいるとします。家族さんは「リハビリで元気なおばあちゃんに戻してください」と言います。おばあちゃんは「私もう年やし、しんどいし、そんなんいいよ」と言います。それはそうですよね。若い頃のように体は動かないから。家族側の望んでいるおばあちゃんの復活は、おばあちゃんにとっての十かもしれない。おばあちゃんはそんなことを望んでいない。ここでどう接点を見いだすかが支援者の仕事のしどころなんです。双方にとって折り合いの良い一つ上の段階を目指すこと。その人が何を望んでいるか会話をしながら判断して、それを考えるのが福祉の仕事です。だから人によって支援が違うのも当然だし、やることが違うのも当然です。でも時には、見込み違いもあります。例えば、メンタルがついてこなかったから、予想していたところまでは出来なかったという場合は、軌道修正しないといけません。メンタルが常時より下がっていたら、まず常時のレベルまで上げます。じゃないと上の段階には進めない。だから、ちょっとずつ計画しながら、場合によって修正していかないといけないですね。
——だからちゃんと見る必要があるんですね。
そう。それで達成できた時が、この仕事のやりがい。先生の仕事と一緒だと思います。時間はかかるけど。精神でも知的でも十年単位で考えるんです。「十年後どうするか」という目標を立てた上で、三年後、一年後の計画を頭の中で考えます。半年が経って変化が見えたら、十年後のプランを考え直す。変化がなければ、とりあえず今まで通り。そういうふうに頭の中でプランを書き換えていきます。
独り立ちするまで
——先生の場合は、学生が卒業すると取り残された感じがすると聞いたことがありますが、どうですか?
僕らの支援だと切れることがあります。関わった以上は、出来れば全員、どちらかが息絶えるまで見ておきたいですけど。僕が息絶えるか、向こうが息絶えるか、関わった以上は最後まで見たいですね。本当は、支援者は情がかかったらいけないのですが、人間ですし。
——今後の計画はありますか?
就労支援をしたいです。仕事に就く障がい者の支援です。障がい者であっても働ける可能性はあります。ただ、企業の人間は仕事をしながら福祉も同時にしなければならないので、そこは難しいです。だから一緒に会社に入って、まず僕が仕事を覚えて、教えながら一緒に仕事をして、本人が悩んでいたら話を聞いて、上司と打ち合わせて、本人が独り立ち出来るまで一緒に寄り添う。そうすることによって、障がい者が生活保護を受けないようになったりしたら、税金の負担が減ることもあるし、企業も国から補助金が出ることがあるので財政的にゆるやかになるし、双方にとって良いことなんです。どんな障がい者でも働けるなら働いた方が、社会にとっても障がい者にとってもいいと思います。ただ、今はヘルパーで雇ってもらっている以上、自分から辞めるとは言えませんね。
——先生で例えるなら、途中で生徒を見放さないということでしょうか?
どんなキツいことを言おうが、先生は見放さなければいいんです。教えて見守るのが先生の仕事だと思います。あとは、導くことですね。自分の道を発見する手助けをする。「お前はこの道がいい」と押し付けるのではない。福祉もそこは同じです。
——色んな可能性を見せてあげるというか。
教育でも福祉でも、可能性を潰したらダメです。可能性は常に残しておかないと。どんなところからそれが開花するか分かりませんから。
Profile
須村 仁 すむら じん
1974年京都府京都市生まれ。介護ヘルパー。
京都医療福祉専門学校 医療福祉科精神保健福祉専攻卒業。
本文中の役職、肩書き、固有名詞、その他各種名称等は全て取材時のものです。
i デイケア:高齢者や障がい者、幼児などを,昼間のみ預かり,リハビリテーション(娯楽や作業含む)や日常生活などの世話等を行う、詰りは通所リハビリテーション、または、その場所(デイケアセンター)のこと。
ii PSW:精神保健福祉士は、精神科ソーシャルワーカー(PSW:Psychiatric Social Worker)という名称で1950年代より精神科医療機関を中心に医療チームの一員として導入された歴史のある専門職。社会福祉学を学問的基盤として、精神障がい者の抱える生活問題や社会問題の解決のための援助や、社会参加に向けての支援活動を通して、その人らしいライフスタイルの獲得を目標としている。
やりたくない仕事をやりたくないと思うのは当たり前です。しかし、好きで始めたはずの仕事なのに、いつの間にか“やらなければならない”ストレスの元に姿をすり替えている事態も、しばしば起こります。単に忙しいだけでそれが自慢になるような社会を、私たちは生きていますが、本当にそれで良いと言えるのでしょうか。
「何でもそうだよ。自分も楽しめて他人も楽しめないと。自分が喜びを感じなかったら、福祉なんかやってもしょうがない。最終的には、自分が楽しいからやる。充実を感じたり、喜びを感じたりするから、福祉なんです」という須村さんの言葉に、忘れていた大切な何かを取り戻せた気がしました。(イム・イエヒョン)
Interview! vol.02_誌面