Interview_05
杉原邦生さん
演劇公演のプロデュースカンパニー主宰・演出家・舞台美術家・オーガナイザーなど、様々な顔を持つ杉原邦生先生。特定の枠に縛られない独特のスタイルで活動の場を広げ、2012年度からは本学の非常勤講師を勤めるなど更に新たな挑戦を続けている。そんな杉原先生に、今の活動スタイルの基盤となっている学生時代のこと、様々な立場から感じる今、そしてこれからの自分について話を聞いた。
「みんなが演劇を楽しめる世界になったら良い」
嫌な事も楽しむ
——先日、舞台ⅰを拝見させていただいて、改めて杉原先生はとてもエネルギッシュな方だなと思いました。先生のエネルギーの源となるものは何なのでしょうか?
何だろう……。規則正しい生活かな? 僕、早寝早起きが好きなんですけど、最近は夜遅くまで仕事をしていることが多いのであまり早寝は出来ていないですね。でも遅くとも朝8時までには起きて、ぜったい朝ご飯を食べます。そういうことかな。半身浴も好きですね。入浴剤を入れて、半身浴しながら携帯でツイッターやったり本を読んだりする時間が、超幸せです。あとは、楽しいことだけをやる。自分が嫌なことはしないというか、自分の嫌なこともちゃんと楽しんでやる。そうしていれば、ずっと元気でいられます。
——お話をしていても元気な様子が伝わってきます。
元気でしょ? 面倒くさいことも、面倒くさいと思ってしまうとしんどくなると思うんですよ。たとえ面倒くさいな、嫌だなと思うようなことでもそれを楽しむようにしています。嫌なことも、割り切ったら楽しくなると思うんです。要は気の持ちようですね。
——学生時代から規則正しい生活をされていたんですか?
そうでもないですね。学生時代はよく寝ていました。生活でいうと高校時代が一番荒れていたと思います。よく遅刻をしていました、完全にサボリで。でも学校行事になると始発で学校に行っていました。学校行事の王って呼ばれていたんです、僕。文化祭でも体育祭でも「行くぜー!来ーい!」って感じで。邦生がいるクラスは盛り上がるって言われていました。
学生時代について
——杉原先生は、京都造形芸術大学の卒業生ですよね。在学中、アルバイト代で多くの舞台を観劇していたと聞いたのですが、学校との両立はどうなさっていたんですか?
ちゃんとアルバイトをしていたのは1年生と2年生の時ですね。でも2年生の時から授業発表公演が入ってきて、その時に親にちゃんと授業に集中しなさいと言われて辞めました。1年生の時は沢山バイトしていましたね。いろいろやったけど、一番長く続いたバイトが夜6時から10時だったので両立は苦労しませんでした。10時に終わって家に帰って早ければ12時には寝れていたし。余裕でした。稼いだアルバイト代は、ほとんどチケットにつぎ込んでいました。沢山観ていましたよ。今でも年間100公演は観に行きます。
——大学時代に影響を受けた方はいらっしゃいましたか?
もう亡くなってしまいましたが、僕が学部生の当時、舞台芸術学科学科長だった太田省吾さんⅱには影響を受けてると思います。沈黙劇とかとてもスローテンポな作品をつくる方だったんです。僕は太田さんとは作風もぜんぜん違うし、どちらかって言うと派手にバーンって感じの演出なんですけど、太田先生に教えて貰ったことがやっぱりどこかに染みついているんですよね。作品をつくる上での態度・姿勢とかそういうことが。
今度、自分のカンパニーⅲがちょうど10回目の公演で、ひとつの節目を迎えるんです。だから原点回帰しようと思って太田先生の代表作の一つである『更地』をやることにしました。どんな作品になるかなーって、自分でも楽しみにしています。
―今、大学時代を振り返って、思う事はありますか?
やっぱり甘かったなと思いますね、今思うと。演劇のことをぜんぜん分かっていなかった。でもそれは(大学の)外に出て気づくことで、学生の間は絶対に気づけなかったんだと思います。学生時代は学校が守ってくれるというか、社会に晒されないですからね。実際はもっと厳しいし、もっとシビアだし、常に最高傑作をつくれなかったら次はない。そういう現実の中でつくらないといけない。学生時代は環境や、舞台ができること自体に甘えていたんだと思います。でも、それはそれで良いとも思うんです。そういうときにしか経験できないこともたくさんあるし。だから、今それを学生に強く言うつもりは全くないし、いずれ自分で気づけば良いことだと思います。
舞台美術家・演出家になるまで
——では、舞台美術家・演出家を選んだ理由を教えて下さい。
僕は大学に入学するまで、舞台のことも(大学の)先生のこともまったく知りませんでした。でも絵が好きだったから、舞台美術を勉強したいと思って入学したんです。入学してからは、先生に舞台を観ることが一番の勉強だと言われたので、それを鵜呑みにして沢山観に行きました。観に行った舞台の舞台美術を、家に帰って思い出しながらスケッチして、ここが良かったここが悪かったって感想を毎回書き出していました。そのノートが沢山あるんですけど、今見ると恥ずかしいですね。しょうもないこと書いてるんですよ。「どこ見てるんだよ!?」みたいな。今だから思うことですけどね。でも、そういうことをやっているうちに、役者のこととか、照明とか音響を舞台美術家の視点で色々デザインできたら、もっと作品の世界観がひとつになって面白くなるのになと思うようになったんです。それで、その世界観をひとつに出来るのって舞台演出じゃね? と思って初めて演出をしたのが3年生の時です。
——初演出をするきっかけは何だったんですか?
最初は同じ学年の子で作家がいて、その作家のテキストを基にパフォーマンスをつくりたいと言っている子達がいて、ちょうど同じ時期に僕が演出をやってみたいって話をしていて。「じゃあやってみる?」みたいな感じで企画が固まっていきました。僕、初演出が春秋座ⅳだったんですよ。異例だったけど、企画書を何回も書き直して劇場事務所に企画を通してやらせてもらいました。それはとても良い経験になりましたね。演出って、演出家それぞれのやり方があるから、教えられるものじゃない。とにかく、自分で試していくしかない。学科でも舞台演出専門の授業ってないでしょ?だから、授業発表公演で裏方をやったり俳優をやったりしながら経験として学んでいきました。そういった中で、自分のやりたい演出のかたちを見つけていきました。
教える人間として
——学生という環境を最大限に上手く使うと良いんですね。
そうですね。大学は、良い意味で守られているから。学生のうちはたくさん失敗できますよ。でも、学生じゃなくなったら失敗はできない。1回の失敗が大きな痛手になります。だからこそ、まずは大学で失敗して、先生や友達にたくさん意見をもらって、力をつけて卒業していけば良いと思います。
——ご自分が教師という立場になって、気づいたことはありますか?
しっかりしないといけないなーって思います(笑)自分の発言や行動とか。学生にとっては先生であり授業だから、そういったことすべてに責任があるなと感じています。ただ、学生だからと言って甘やかすつもりはありません。「プロの現場とはこういうものです」「プロとして演劇をやっていくというのはこういうことです」っていう基本的なことはきちんと伝えようと思っています。
——では学生に期待することってありますか?
学生に期待することというか、自分が動かないと何も始まらないということは言いたいですね。受け身では絶対に駄目で、自分から行動を起こしていかなくてはいけない。僕が3年生の時に川村毅先生ⅴのクラスでやっていた時、先生がお忙しくてあまり授業外の稽古ができなかったんです。だから、僕ら学生のほうから色んな案を出して、それを先生にジャッジしてもらったりしていました。それがとても楽しかったです。やっぱり自分達が動かないと何も楽しくないし、受け身じゃ面白くならない。自分が変えたいことがあるんだったら、自分で変えていかないと意味がないと思っています。怒られるかもしれないけど、反対されるかもしれないけど、変わらないなら自分が変えるって。それくらいの気持ちでやっていってほしいです。
——なるほど。(気持ちが)熱いですね。
「熱い」ってよく言われるけど、ただやりたいことをやっているだけですよ。今は自分のやりたいことに対して強い根拠と自信があるからそういう風に見えるんだと思います。今の学生には、それが足りていない様に思います。やりたいことが無いのかな、学生って。学生じゃなくても、後輩に相談されると、じゃあ何で演劇をやっているんだろうと思うことがあります。そこに疑問がないというか。ただ大学に入ったからやっているとか、それだと続かないですよね。理由は何でも良いと思います。本当にごく一般的なことでも良い。「舞台でお客さんを感動させるのが夢だから」とか、そういうことでも良いんです。何か自分が舞台を続ける、舞台を勉強することへの哲学を持って欲しい。舞台だけの話じゃなく、芸術は社会にとって必要不可欠なものではないと思うので、それを敢えてやるのなら、自分なりの哲学というか、信念を持って活動していないとお客さんも観に行く気にならないと思います。
「日々、努力と勉強」
——杉原先生のポリシーは何ですか?
優れた芸術ってその人(アーティスト)の人生、観た誰かの人生、それぞれを豊かにすると思うんです。だから、そういうことをしたい。自分の中で何かが変わっちゃったとか、泣いちゃったとか、笑っちゃったとか、人の感情を揺さぶるようなことが出来たら良いなと思います。経済的・時間的余裕がないと、なかなか観に来られないだろうけど、みんなが演劇を楽しめる世界になったら良いですね。僕が生きている間には世界全体がそうなるのは難しいかも知れません。でもそれ位の気持ちでやっています。今は小さなことでも、それがいずれ大きなことになったら良いなと思ってやっています。
——沢山の人に楽しんでもらいたいという気持ちを持っていることが大切なんですね。
そうですね。僕は演出もやるし舞台美術もやるし、フェスティバルのディレクションもやりますけど、何にしてもお客さんのことを考えています。お客さんがいて初めて成立するものだから、その人達の事は抜きにして考えられませんよね。だからお客さんがどういうことをしたら楽しんでくれるか、テンションが上がるか、感動してくれるかを常に考えています。それと、自分がやりたいこととの接点を見つけるようにしています。自分が楽しめないと、お客さんにも楽しんでもらうことは出来ないから、何事も自分が一番楽しむようにしています。
——では最後に今後の目標を教えて下さい。
紅白歌合戦の演出をしたい! オリンピックの開会式とか、国民行事とか、祭りとか好きなので。町おこしとか、イベントとか、たくさんの人が集まって観るものの演出をできたら良いなと思っています。あとは自分の作品を、一人でも多くの人に届けられるように。日々努力と勉強しかないですね。
―ありがとうございました!
Profile
杉原邦生 すぎはらくにお
演出家、舞台美術家。1982年東京生まれ、神奈川県茅ケ崎育ち。
EXILEファンクラブ“EX FAMILY”会員。京都造形芸術大学映像・舞台芸術学科第2期卒業生。特定の団体に縛られず、様々なユニット,プロジェクトでの演出活動を行っている。2004年、プロデュース公演カンパニー“KUNIO”を立ち上げる。2008年、伊丹市立演劇ホールAI・HALLとの共同製作事業“Take a chance project”アーティストに選出される。歌舞伎演目上演の新たなカタチを模索するカンパニー“木ノ下歌舞伎”には、2006年5月『yotsuya-kaidan』(作:鶴屋南北)の演出をきっかけに企画にも参加。2009年9月KUNIO06『エンジェルス・イン・アメリカ-第1部 至福千年紀が近づく』で京都芸術センター「舞台芸術賞2009」佳作受賞。また、こまばアゴラ劇場が主催する舞台芸術フェスティバル<サミット>ディレクターに2008年より2年間就任、2010年からはKYOTO EXPERIMENTフリンジ企画のコンセプトを務める。2012年度より京都造形芸術大学 舞台芸術学科の非常勤講師を勤める。
「楽しい事が好き」と話す杉原先生。その言葉の通り、取材中は終始笑いが絶えない楽しい時間だった。見方ひとつで、考え方ひとつで世界は変わる。そして世界は変えられる。何もそれは、芸術の作り手だけの話ではない。受け手がいてこその芸術であり、世界を変えるきっかけは、私たちの誰もが持っているものなのだろう。そう、強く感じた。(宮崎真緒)
ⅰ歌舞伎演目上演の新たなカタチを模索するカンパニー“木ノ下歌舞伎”の『義経千本桜』の事。2012年7月7日(土)、8日(日)に京都芸術劇場・春秋座で行われた。3人の演出家の内の1人として杉原氏が参加していた。
ⅱ太田 省吾(おおた しょうご) 劇作家、演出家。岸田國士戯曲賞の審査員などを務めた。1968年“転形劇場”旗揚げに参加。1970年より劇団主宰となる。代表作に『小町風伝』(1977年初演。第22回岸田國士戯曲賞受賞)。『水の駅』、『地の駅』、『風の駅』で沈黙劇三部作と称される。1988年、劇団を解散。以後、藤沢市湘南台市民センター芸術監督、近畿大学教授を経て京都造形芸術大学教授を勤める。2007年、肺癌のため67歳で逝去。
ⅲプロデュース公演カンパニー“KUNIO”の事。2004年、杉原氏が既存の戯曲を中心に様々な演劇作品を演出する場として立ち上げる。俳優・スタッフ共に固定メンバーを持たない、プロデュース公演形式のスタイルで活動している。
ⅳ京都芸術劇場・春秋座の事。2001年、京都造形芸術大学内に開設された、大学運営による本格的な劇場。歌舞伎や落語、ミュージカルや演劇など様々なジャンルの公演が行われている。
ⅳ京都芸術劇場・春秋座の事。2001年、京都造形芸術大学内に開設された、大学運営による本格的な劇場。歌舞伎や落語、ミュージカルや演劇など様々なジャンルの公演が行われている。
ⅴ川村毅(かわむら たけし) 作家、演出家、“T factory”主宰。1980年、劇団“第三エロチカ”創立、以来全作品の演出・劇作を務める。1985年、『新宿八犬伝 第一巻-犬の誕生-』で第30回岸田戯曲賞受賞。1991年、映画初監督作品『ラスト・フランケンシュタイン』。 2002年3月、自作戯曲上演プロデュースカンパニー“T factory”創立。戯曲集・小説・エッセイ・評論など著書多数。
Interview! vol.1 誌面
取材時の様子
京都X横浜プロジェクト2012 義経千本桜
本文中の役職、肩書き、固有名詞、その他各種名称等は全て取材時のものです。